アイスクリームの伝播
16世紀の半ば、アイスクリームの歴史に大きなエポックが訪れ、その後のすばらしい発展のきっかけになります。それは、冷凍技術の発明とカトリーヌ・ド・メディチとフランス王アンリ2世の婚礼です。当時、イタリアで食べられていたアイスクリームがフランスへ伝わり、さらにヨーロッパ各地にも広がっていきます。
16世紀初め、イタリアでものを冷やす技術が大きく発展します。パドヴァ大学教授であったマルク・アントニウス・ジマラが、水に硝石を入れるとその溶解熱により水の温度が下がることを発見します。この方法を当時のイタリアの富豪たちは、食卓でワイン等を冷やすのに利用しました。
次いで、氷に硝石を混ぜることにより冷やす時間をスピードアップさせる技術が開発され、ついに飲み物を凍らせることに成功。天然氷を利用しないシャーベットが作られるようになり、バリエーションも一気に広がりました。
イタリアで発見された冷凍技術は、シャーベット類のバリエーションを広げました。この技術は17世紀初頭にはイギリスにも伝わり、フランシス・ベーコンは「硝石の代わりに食塩でも同じ効果が得られる」と述べています。
1533年、フィレンツェの大富豪メディチ家のカトリーヌは、のちのフランス王アンリ2世となるオルレアン公に嫁ぎます。カトリーヌは叔父のローマ法皇クレマン7世に付き添われ、菓子やアイスクリーム職人をはじめ、多くの料理人を伴ってのお嫁入り。婚礼の宴では、メディチ家の料理人たちによってイタリアの豪華な料理がふるまわれた。
なかでも、木イチゴやオレンジ、レモン、イチジク、レーズンなどのドライフルーツ、アーモンドやピスタチオなどのナッツを使ったシャーベットのすばらしさに、フランスの貴族たちは驚嘆したそうです。
宴会で使用した氷は、ノルウェーのフィヨルドから海路パリに運ばれたものと言われています。カトリーヌのお輿入れは、それまでフォークを知らなかった宮廷の食卓マナーに大変革をもたらし、菓子をはじめ新しい料理も次々と作られました。
カトリーヌ・ド・メディチは、イタリアの食文化をフランスで開花させます。彼女のおかげで今日のフランス料理やフランス菓子が完成します。
イギリスにアイスクリームが渡るのは1624年、カトリーヌ・ド・メディチの孫娘アンリエッタ・マリアとイギリス王チャールズ1世の結婚によってです。その時にアイスクリーム職人を連れて行きますが、その一人がジェラール・ティーセンです。
チャールズ1世は彼のアイスクリームの魅力に夢中になり、高い報酬で優遇し、さまざまなアイスクリームを工夫させます。その一つが「グラス・ナポリタン」で、三色アイスクリームとして現在も健在です。
イギリスにアイスクリームが渡るのは1624年、カトリーヌ・ド・メディチの孫娘アンリエッタ・マリアとイギリス王チャールズ1世の結婚によってです。その時にアイスクリーム職人を連れて行きますが、その一人がジェラール・ティーセンです。
チャールズ1世は彼のアイスクリームの魅力に夢中になり、高い報酬で優遇し、さまざまなアイスクリームを工夫させます。その一つが「グラス・ナポリタン」で、三色アイスクリームとして現在も健在です。
1686年、シチリア島出身の菓子職人フランソワ・プロコープが、パリのサンジェルマン・デ・プレの近くで「カフェ・プロコープ」を開店。彼はアラブ菓子を応用した珍しいアイスクリームを客に提供しました。
現在のアイスクリームの原型となるホイップクリームを凍らせた「グラス・ア・ラ・シャンティ」、卵を使った「フロマージュ・グラス」などを次々に生み出します。1720年のことでした。
1889年、ロンドンのサヴォイホテルで料理長をしていたエスコフィエは、当時最高の歌姫と言われたネリー・メルバの声に魅せられます。彼女が出演した歌劇「ローエングリン」にちなんで、氷で作った白鳥の器にバニラアイスクリームを盛り、その上に桃のシロップ煮を飾ったデザートを考案。これが有名な「ピーチ・メルバ」です。
(左)「近代フランス料理の父」と言われるエスコフィエ
(右)ネリー・メルバは19世紀末、一世をを風靡したオーストラリアのオペラ歌手。彼女のロンドン公演に際し、エスコフィエは「ピーチ・メルバ」というアイスクリームを考案しました。