アイスクリーム時代の到来
昭和28年、国産のカップ充填機が雪印乳業の品川工場で稼働を開始。その頃、ようやく日本製の紙カップも使用できるようになり、本格的にカップアイスの生産が始まりました。
大阪工場で生産されていた「赤」「青」「黄」のカップアイスがヒットしたのもこの頃です。やがて、その中の「青」カップがカップアイスの定番「バニラブルー」となりました。
昭和30年に協同乳業は、酪農先進国のデンマークから大量生産できるアイスクリームバーマシンを輸入、東京日本橋の本社ビル1階をアイスクリームの製造工程が見える工場として、生産を開始しました。
昭和31年に1本10円の「アイスクリームバー」を発売し、大量生産によるアイスクリームの大衆化の道を開きました。昭和35年には当たりくじ付き「ホームランバー」を発売し、当時の子供たちのあいだで爆発的な人気となりました。あたりくじの仕組みは、バーに当たりマークを焼き印し、当たり(ホームラン)が出たら買ったお店でもう1本もらえるというものでした。